「内海さん、鉛筆持ってんだ」
そう佐々木に声をかけられたのは、西陽が差し込み始めた放課後の美術室だった。
私は四つ切りの画用紙に、ラベルが色褪せた珈琲豆の瓶に生けられた、百合の姿を写し取っていたところで。集中していたため気配を感じることができず、突然の呼びかけに体がびくりと跳ねた。線がぶれる。
「あ、ごめん」
驚きのまま後方を振り返る。「ごめん」と謝ったわりには、さほど悪いとは思ってなさそうな、無表情の佐々木がそこにいた。
佐々木直之。同じC組で、出席番号16番。美術部に入っていて、絵が入賞したといっては、よく全校朝礼で表彰されている有名人。
有名人ではあるけれど、教室での佐々木は物静かで、目立たない。それどころか、クラスでは変わり者扱いされている。たまに話をしたとしても、口調は淡々としていて事務的で。なにより、表情を動かすことがほとんどない。あいつは喜怒哀楽がない、なんて言うクラスメイトもいるくらいだ。
そんなことは、ないと思うのだけれど。
「内海さんって、美術部だったっけ?」
背中からオレンジ色の光を受けて、佐々木の髪が茶色く透けて見える。柔らかい髪質なんだろうな…、そんなことを思いながら、私は首を横に振った。
「ただの居残り。授業中に、終わらなかったから」
「ああ、そうなんだ」
頷きながら、佐々木は机を挟んで私の前に回り込み、鞄を床におろした。4人用の広い机に、2人で向かい合う形になる。他の所は、すべて空いているのに。もしかして、ここが佐々木の定位置だったりするのだろうか。
「私、別の机に移ろうか?」
「なんで?」
「だって…」
ちらりと、先生すらいない教室を見回す。それで私の言いたいことが分かったのか、佐々木は緩く首を振った。
「違うよ。俺も、描こうと思っただけ」
そうして大輪の百合を指差すと、佐々木は美術部員用の戸棚に足を向けた。スケッチブックとペンケースを持ってきて、椅子に座る。
開かれたペンケースには、大量の鉛筆。隅のわずかな隙間に、練り消しゴムとプラスチック消しゴムが、窮屈そうに並んでいる。
まだなにも描かれていない、真っ白なページ。その上に、佐々木は無数の鉛筆を無造作に転がした。
いつも感情の見えない佐々木の目が、すっと鋭さを帯びた。初めて見る表情に、私は釘づけになった。胸の奥が、ざわめく。
白く、咲き誇る百合の花。彼女をじっくりと見つめ、佐々木の長い指が、1本の鉛筆を選び出した。
ためらいなく他の鉛筆をスケッチブックから追い出して、ひとつ息をつく。そして、佐々木の手が画面を走り出した。
大まかに形を取ったかと思うと、あっという間に百合の姿が浮かび上がってくる。
何度も何度も、線を重ねて。大胆でありがながらも、繊細に。初めはぼんやりとしていた像が、徐々に克明になっていく。
内に秘めた気高さ、凛とした輝き、生命力。それらすべてが、佐々木の走らす鉛筆の先から、香り立つ。
目が離せなくて。
まばたきさえ、惜しくなる。
「…内海さん?」
名前を呼ばれて、はっとした。手を止めた佐々木が、真っすぐに私を見つめている。
「どうかした?」
「いや、なんていうか。…見惚れてた。花が、紙の上で生きてるって、感じて」
軽く目を見開いて、佐々木はうつむいた。長めの前髪に、表情が隠される。
「……それは、褒めすぎ」
「ご、めん。…けど、本当に、そう思って」
佐々木は何も言わずに、うつむいたまま。
今日はオフなのか、それともミーティングをしているのか、いつもは聞こえるはずの吹奏楽部の音色さえ聞こえない。窓をきっちり閉めているせいか、運動場で練習に打ち込む野球部のかけ声さえ聞こえない。
まるで学校じゃないみたいな、奇妙な空間。2人きりの美術室。
「……ありがとう」
静けさに負けそうなほど小さな佐々木の呟きは、少しかすれていた。
「内海さん、鉛筆持ってんだね」
「え?」
そういえば、さっきも同じことを言われたっけ。
「鉛筆が、どうかした?」
「ん、珍しいと思って」
「そう、かな。けど、授業のノートはシャープペンだよ」
「いや、俺もそうだけどさ」
珍しく饒舌な佐々木は、くるりと鉛筆を回してみせた。丸くて太い軸に浮かぶ木目は、佐々木の手にしっくりとなじんでいる。デッサン用のものなのだろう。描線は濃く、とても柔らかい。
「鉛筆なんて筆箱に入ってない、ってやつの方が多いじゃん。使い勝手が悪いってさ」
「まあ…。確かに、鉛筆は削る手間がかかるからね。ゴミも出るし。シャープペンはその点、楽だよね。芯を継ぎ足すだけで、またすぐ使えて。鉛筆みたいに短くなっていくこともないし」
手の中の鉛筆を見つめていた佐々木は、唇の端だけで、ふっと笑った。
「いいところがないな」
その響きはひどく寂しくて、私の胸はどきりと跳ね上がった。
「いや、一般論だから! 私は…鉛筆、好きだし」
別に恥ずかしいことを言ったわけでもないのに、私の声は次第に小さくなって、最後にはかすれてしまった。
何故か、佐々木が好きだと告白しているような、そんな気持ちになったのだ。
佐々木は鉛筆から視線をそらし、私を見た。
静かな眼だ。多少のことで感情は浮かんでこないから、無表情だとか、喜怒哀楽がないなんて言われるけれど、本当は違う。秘めている輝きは強い。普段は隠れているけれど、『描く』ときに、それは現れてくる。深いところから浮かんでくる、輝き。
「佐々木は…どうなの?」
尋ねる声が少し震えた。答えなんて、聞かなくても分かる。数分前、百合を見つめていた佐々木の鋭い眼差しが、脳裏にちらつく。胸がざわめく。私は、隠された『佐々木』をのぞいてみたいだけ。
ひとつ息をはいて、佐々木は口を開いた。
「鉛筆は、好きだよ。好きっていうか、ないと困る」
私達の目の前に、佐々木は使い込んで短くなった鉛筆を掲げた。
親指と人差し指に挟まれ、直立する鉛筆。キレイな弓型。
「内海さんも言ったけど、鉛筆は使えば使うほど短くなって、終わりをむかえるだろ。二度と元には戻らない」
西窓から差し込む夕陽が鋭くなっている。日没が近い。教室に隅に、じわりと夜がにじみ出してくる。
「ナイフで鉛筆を削ってるとさ、命を削ってんだなって思うんだ」
命を削っている。不穏な言葉のはずなのに、佐々木が言うと、それはひどく尊い行為に聞こえた。
「そして俺も…そうでなければいけないと思うんだ。命を削って、描く」
「……全身全霊で、ってこと?」
「そう」
佐々木は静かに、けれど深く頷いた。
「命を削るのは、きっと、すべて同じなんだ。絵画だけじゃなくて、彫刻も陶芸も書も音楽も。新しいモノを生み出すためには、それくらいのエネルギーが必要だと思うんだ。ましてや、それで勝負しようと思うならね」
一瞬、佐々木の両目が鋭い光を放つ。いつもは隠れている光。肌が、ぞくりと粟立つ。
「だから…鉛筆じゃないと、描けない」
淡々と。けれど、揺るぎない意思を持って。
いつもは隠されている『佐々木直之』が、見えた。
「ごめん。熱くなりすぎちゃったね」
ふっと佐々木の表情が和らぐ。私は小さく笑って、首を横に振った。
黒板の上に設置されたスピーカーから、最終下校時刻を告げるチャイムの音が流れだした。気づけば外はもう真っ暗で。「そんな時間か」と呟いて、佐々木は鉛筆をケースに仕舞い出す。
「そういえばさ」
佐々木の声に、私は片付けの手を止めた。
「内海さんは、なんで鉛筆が好きなの?」
そう問われて、自然に目が佐々木のスケッチブックに向いた。まだ開かれたままの画面の上で、息づく百合の花。
私はゆっくりと顔を上げた。
視線がぶつかる。感情の読めない、静かな眼だ。だけど今はもう、無表情だとは思わない。佐々木の双眸は、静かで、深い。奥底に、強く輝く光のきらめきが映る。その眼を、私は真っすぐ見つめる。
「やわらかくて、あたたかいから」
数度まばたきをして、ふっと佐々木はほほ笑んだ。それはひどく、嬉しそうに。
「内海さんらしいね。…素敵だ」
佐々木のほほ笑みと言葉はじんわりと、私の胸に沁み込んで広がった。