臆病者の背中

 彼はいつも、背中から私をせめる。
 現に今も、私の背骨のラインを、彼の薄い唇が這いのぼっていく。
 時に舐められて、強く吸われて、そのたびに私は悲鳴をあげた。かすかに触れる彼の髪にさえ、感じてしまう。
 彼の唇は丁寧で、そして執拗で。四つん這いになっている私の両腕は、既に震え出していた。シーツを強くつかみ、崩れ落ちそうになるのをこらえる。
 私の腰をつかむ彼の両手が、熱い。そこから溶けてしまいそうなくらい。
 私の名を呼ぶ低くかすれた声が、吐息と共に耳をなでた。
 不意打ちに、身体が大きく跳ねる。さらに耳の裏を舐められて、私はまた悲鳴をあげた。
 汗なのか、涙なのか。それすら、もう分からない。雫がぱたぱたと手の甲に落ちて。耐えきれずに、肘が折れた。
 シーツに沈みこみそうになる寸前、彼の腕に引き上げられる。もう、自分で自分の身体をコントロールできない。引き上げられた勢いのまま、私は彼にもたれかかった。
 背中が、彼の胸と密着する。熱い。熱い、熱い。熱くてたまらない。骨ばった彼の長い指が、私の肌を縦横無尽に這いまわり、さらに熱を煽っていく。
 そうして私は、すべてを暴かれる。翻弄されて、追い詰められて、堕とされて。彼の前では、何も隠せない。嘘も強がりも、許してはくれない。身体も心も、すべてをさらせと、甘く、それでいて容赦なくせめられる。
 わずかに残っていた理性も、どろどろに溶かされる。
 彼は余裕を保ち続けたまま、私だけが乱されていく。
 決して、向かい合ってはくれないくせに。




 不意に、まどろみの中から意識が浮かび上がってきた。
 目を開く。ぼんやりとした視界が徐々にクリアになっていく。薄い闇の中、最初に見えたのは小さな赤い光。そして、彼の背中。ゆらめく煙に、ようやく煙草の火だと気づいた。
 細い身体だけど、軟弱には見えない。内に秘めた強靭さをにじませる、しなやかな背中。その背に触れたくて、手を伸ばす。けれど届かなくて、私の手は宙をかいた。
 届きそうで届かない中途半端な距離は、彼と私そのものだ。
 幾度なく身体を重ねていながら、その最中に目と目を合わせたことも、向かい合ったことすらない。
 いつだって、彼は私のすべてを引きずり出しておいて、そのくせ自分は何ひとつ見せやしない。その表情も、汗も、隙も、心も。なにひとつ。
 それが腹立たしくて、悔しくて。けれど、不安で。
『こっちを向いて』
 その一言が、唇の先まで出てきては、形にならずに消えていく。
 だって、分からない。彼が何を考えているのか。この関係を、私のことを、どう思っているのか。本気なのか、遊びなのかさえ。様々な想像が、頭の中をめぐって止まらない。
 そうして怖くなる。踏み出せなくなる。今のこの状態だって、平穏とは程遠いものだけだれど、それでも。もし、彼とサヨナラになってしまったら。
 私はきっと、壊れてしまう。
 むき出しの肩が寒くて、私はシーツを引っ張り上げた。背後にまったく注意を向けていないのか、私が起きていることに気づく様子もなく、彼は悠然と紫煙をくゆらせている。本当は、触れたくて、触れたくて、たまらない背中。その背を、せいいっぱい睨みつける。
「…ずるい」
 彼に聞こえないように、吐息に隠して呟いた。それは、臆病な自分を隠す言葉。
 カーテンが、ほんのり色を持ち始める。朝が、近い。




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