Glass Heart

「やばいっ!」


ガシャン


 食器棚の一番上の段からサラダボウルを引っ張り出した拍子に、同じ所に置いてあったガラスコップに手がぶつかった。
 もう片方の手でおさえる間もなく、大きく揺れたコップは棚から落下して、瞬きのうちに粉々になってしまった。
「あーあ、何やってんだろ…」
 とりあえず、サラダボウルをテーブルに置く。スリッパを履いていて良かった。少し足の位置を変えただけで、じゃりっという感触が伝わってくる。
 しゃがみ込んで、大きい破片を集める。かなり高い所から落下したせいで、その散らばり具合はすさまじいものだった。


 深い青色から水色へのグラデーションが、美しいコップだった。
 小樽へ旅行に行ったとき。硝子工芸館の土産物コーナーに並んでいたのを一目見て気に入って、彼と私と、お揃いで買って帰った。いわば、想い出の品。
 彼は、このコップをどうしたんだろう? 
 いや、答えは分かってる。とっくの昔に捨てたにちがいない。
 だって、もう、私と彼は別れたのだから。


 小樽。あれが、彼と行った最後の旅行になった。今度は沖縄に行きたいね、なんて話をしていたのに。
『他に好きな人ができた』
『もう付き合ってる』
 そう言われて、約2年続いた彼との交際は、終わりを迎えた。
 しばらくは何をするにもやる気が出なくて、暗い毎日を送っていたけれど。徐々に彼がいない日々にも慣れていって、もう3か月が過ぎた。時には、彼のことが頭をかすめることもあるけれど。
 だけど、もう大丈夫。ちゃんと、やっていける。あの人がいなくても、私は平気。


「あっ」
 つい深く考え込んでしまったせいか、手元が狂った。破片をつまんだ中指の腹が、ざっくりと切れて。溢れ出た鮮血が破片を伝って、フローリングの床に滴る。
 私はぼんやりと、赤く染まった指先を見つめた。
 痛いとは、感じなかった。
 傷が深すぎて、というわけではなくて。心が麻痺して感覚を無くしてしまったみたいに、頭は冷静で。
 切れたな、という言葉しか、出てこなかった。


 粉々のガラスコップ。
 散らばった破片。
 少しずつ溜まっていく血。
 痛いと感じない心。


 不意に、割れたのだと、思った。
 このコップと同じように、私の心も、3ヶ月前のあの日に割れてしまったのだと。
 好きな人ができたと、その彼女とは既に付き合っているのだと、彼に告げられた、あの日に。
 大きくひび割れて、崩れ落ちて。今も粉々になったまま。


 彼がいなくても、大丈夫だと思っていた。
 だけど、それは自分への誤魔化しで。そう思うようにしていただけのこと。
 そうして、飛び散った破片を目の前から隠してた。
 心の破片は、別れた時の事を、否応なしに記憶の中から引きずり出してくるから。
 あの時の、重い空気、彼のよそよそしい態度、そらされた目、淡々とした声音、テーブルの上に私の部屋の合鍵を置いた指先、ゆっくりと閉まる扉の向こうに消えていった背中。
 私の言葉も、眼差しも。なにも寄せつけない、冷たくて強固な拒絶。
 そんな…すべての記憶を、私は封じ込めようとした。
 粉々になった心は、何も感じない。それを、頭の中で考えて作り出した偽物の感情で塗りこめて。


 本当は、大丈夫なんかじゃない。
 平気じゃない。
 苦しい、辛い、憎い、悲しい、泣きたい、わめきたい。
 彼のことを引きずってる。まだ未練がある。
 今でも彼のことが、好きで、好きで、好きで………。


 涙が、こぼれた。
 目頭が熱くなるとか、喉が詰まるとか、そんな前触れは何ひとつなく。右目から、唐突に。涙の粒がぽろりと、血に濡れた中指に落ちた。
 血と、涙が、溶け合う。
 次の瞬間、両目から涙が溢れ出た。次から次へとこぼれてきて、止まらない。
 思い返せば、彼と別れて、初めての涙だった。
 別れを告げられてしばらくは、悲しいよりなにより、ただ呆然としていて、涙も出なくて。
 それから、壊れた心と向き合う前に…向き合おうともせず、すべてを封じ込めてしまったから。


「うっ……ひっ、う、うぅ…」
 嗚咽で喉をつまらせながら、私はコップの破片を拾い集めた。
 ふと思う。コップの破片と一緒に、私は、自分の心の破片を拾い集めているのかもしれない、と。


 赤く塗れた指先に、現実と幻が交錯する。
「……痛い」
 その瞬間、初めて、中指が痛んだ。




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